その日、裸武星隼人(らぶほし はやと)は、いつもと変わらぬ足取りで某スーパーマーケットの裏口から店内へと潜り込んだ。
二階の更衣室にて急ぎ身支度を整え、タイムカードの鎮座する一階へと戻るべく扉の取っ手に手を掛けた、まさにその瞬間であった。奥から扉が押し開かれ、高年のパートである小田切が入ってきたのである。
「あ、ラブホくん!! ねぇ、聞いたよぉ、やめちゃうのここ~!!? 寂しくなるじゃない!!」
片桐はいつも通りのおおらかで人懐っこい声調で、そう言葉を投げかけてきた。これに対し、
「いゃあ~すみません!! 大学が忙しくなっちゃって……僕も小田切さんと会えなくなるのが寂しくてたまりませんぅ!!」
などと、柄にもなく世辞を宣う彼であった。平素はどこまでも無愛想を決め込む彼であったが、相手が自らに敵意の存在し得ぬ高齢の老婆であれば、この程度の愛嬌を発揮することは造作もないことであった。
しかし、この時の彼は密かに勝ち誇った気分に浸っていた。というのも、二週間ほど前に店長へ辞職の意を伝えたものの、その折は「十月はちょっと急やなぁ」などと曖昧に棚上げされ、懲役の延長を画策されているのではないかと危ぶんでいた最中であったからだ。どうやら彼の退職は、着実に既成事実として進行しているようであった。
それから、いつものごとくカスタマーコーナーへと足を運んだ。
この日の現場は、何やら異様な空気が漂っていた。長らく彼とは無縁であった開店直後のアテンダント業務を命じられたのである。(六時からの長丁場のアテンダントは、通常であれば佐藤ミクと2人きりとなるため、裸武星を避けたい彼女の判断によってレジへと回されるのが常であった。)
どのような風の吹き回しかと勘繰りもしたが、考えるのも億劫となった彼は、サッカー台の前で会計を終えた客へ向けて「ありがとうございます」と虚無の口調で繰り返す機械と化していた。
一方の佐藤ミクはといえば、カスタマーコーナーで仕事を捏ね繰り回すフリをするかと思えば、彼の隣に並んでは気まずそうに去っていくという、落ち着かない挙動を繰り返していた。彼は無関心を装いつつも、万一に備えてマスクの下に薄っすらとした微笑を忍ばせていた。
そして驚くべきことに、その「万一」は現実のものとなったのである。
「ねえラブホくん。これ見て、こっち来て!!」
久しぶりに聴く、実に人懐っこい声調であった。
一体何事かと胸を躍らせて駆け寄ると、彼女はサッカー台の上を指差していた。そこには一匹の小さな蜘蛛が佇んでいた。どうやらそれを除去してほしいとのことらしい。
だが、たかが蜘蛛一匹に狼狽するような女ではないはずであった。何を隠そう、彼女は以前、客が女子トイレに撒き散らしていった汚物を平然と掃除せしめた実績を持つ女である。つまりこれは、彼との会話の接点をどうにか捏造しようとする彼女の思惑が透けて見えていたのだ。
これまで彼を忌み嫌っていた彼女が、なぜここへ来て翻意したのかは定かではなかった。しかし、前回の出勤時にもエプロンの装着具合などという他愛もない用件で話しかけてきていた。ここ最近の彼女は、以前に比べひどく物腰が柔らかであった。
蜘蛛を足元で退け、このハプニングを契機として、凍りついていた互いの距離が微かに弛緩したのを感じた彼は、千載一遇の好機とばかりに彼女に様々な話題を提供した。
まるで五ヶ月前の平和な日々に回帰したかのごとき錯覚を覚え、彼の胸はひどく高鳴っていた。そして、話の脈絡で、彼はついに自らがバイトを辞する旨を口にしたのである。
「あ、うん。知ってた、だいぶ前から」
彼女から返ってきたのは、彼の予想を大きく裏切る一言であった。
それと同時に、彼はすべての真相を悟ってしまった。
(あぁ、そういうことか……)
ここ最近の彼女の優しさは、ひとえに「最後くらいは円満な形で終わらせたい」という、彼女の大人な配慮によるものに過ぎなかったのだ。
実際、どこまでいっても、彼と対話する際の彼女は、川崎や大西といったお気に入りの面々と接する際に見せるような、心からの笑い声を漏らすことはなかった。彼女はただ、彼に合わせてくれていただけだったのである。
彼女が会話の受け答えを丁寧に行うモードに入りさえすれば、彼の稚拙で退屈な言葉の羅列すらもうまく翻訳し、さも楽しく対話しているかのように演じきれてしまうのだ。
半年前、四年生の先輩らが去り、バイト先が女だらけの密室と化したあの頃。彼が唯一まともに意思疎通の図れた女子こそが、佐藤ミクであった。
当時の彼は『あえてデリカシーを欠くことで腹を割り合える』という歪んだコミュニケーション論を信奉しており、彼女に対しても「友達とかいるんですか??」などという不遜な質問を投げつけたことがあった。
それに対し、彼女は「ん~、いないよ。私、人間が苦手だから」と返したのである。当初は彼に対する配慮や謙遜の類かとも疑ったが、のちに交換したSNS(インスタグラム)のフォロー数がわずか十数人であることを確認した際、極度の対人不安を抱える彼は、彼女に対して絶大な親近感を抱いたのであった。
「彼女は俺と同類の人間だ。ならば俺が、この店で彼女の唯一の理解者となってやれるかもしれん」
今思えば反吐が出るほど自意識過剰で浅ましい思い上がりであったが、その思い込みが功を奏したのか、女恐怖症を病む彼が珍しく積極的に話しかけ、一時期は確かな打ち解けを見せていた。当時の彼は、己もまた女と対等に渡り合える一人前の人間に成長したのだと、鼻高々であったのだ。
その後、月日の経過とともに彼の不細工な本性が露呈し、彼女の好感度は暴落していくわけであるが……それでも、当初見せていた彼女の楽しげな表情だけは本物であったと、彼は固く信じ込んでいた。
しかし、先刻の彼女の冷徹な佇まいを目にして、彼は残酷な現実に思い至らざるを得なかった。
彼は最初から、ただ彼女の圧倒的なコミュニケーション能力によって「合わせてもらっていた」だけに過ぎなかったのだ。
そしてその事実は、彼がこれまで胸奥に大切に仕舞い込んでいた「過去の栄光」すらも、何ら意味を持たぬ空虚な幻影であったと突きつけていた。